[PR]
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
論理学と哲学
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ウェブサイト活用にも当然に「閾値(いきち)」という考えが適用できます。ウェブサイトは、マーケティングツールとしての効果が現れるまでに段階があります。そして、ある段階に達した時、その真価が発揮されます。閾値(いきち)とは閾値とは、要約すれば「反応が起こるために必要な最小量」です。ウェブサイト活用に置き換えれば、ウェブマーケティングにおけるウェブサイトの効果が現れるための必要なサイトパワーです(少し無理やりかも知れませんが)。サイトのマーケティング効果閾値という言葉を使ったのは、サイト自体のマーケティング効果は、施策に対してまっすぐは比例しないからです。通常、ウェブ広告などは費やした費用に正比例して、効果が現れます。もちろん多少の変動や限界値、そして閾値もありますが、概ね正比例と捉えて良いと考えます。
優越感を刺激するものに対する批判への批判としてルサンチマンが使われたりします。つまり弱者の怨恨であり、「僻みだ」と居直るようなことです。そういった使われ方もあたっていることはあります。ただ、これは水掛け論であり、「見栄の塊だ」という批判への反論が「僻みだ」というのも、構造上決着がつきません。「優越感を刺激するもの」を「非難すること」は「僻み」なのかという点と、その優越感を非難する基準はどうやって決まっているのかという点はあまり語られません。 批判への批判としての「ルサンチマン」の利用 ルサンチマンについては ルサンチマン
自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度 積極的ニヒリズムなどと言われますが、本来はポジティブもネガティブもありません。そんなものがあったら「虚無」ではありませんね。 積極/消極、受動/能動という概念すら「虚無」のはずです。虚無はどこに行ったのでしょうか。
要約やあらすじを書くことは不可能という人がいますが、字数が決まっている作品なのにできないわけがありません。解説、考察はやろうと思えばできますが、「本文を読んだ気」になることを避けるために、そういうことをする気はありません。どんな本でも、まずは原典、分かりにくければ注釈書、というのが、取るべきプロセスです。しかも日本人が日本語で書いているのですから。 ともすれば、自我が「これは自分を脅かさないぞ」と反応してくれるものだけを認める傾向にあります。自我が働いているのだから当然です。こういう話を宗教屋や自己啓発洗脳の人は、断定したりしますが、そんなことをするつもりはありません。気が狂うのではなく、読んで意味がわからなければ、気が狂っています。これを読んで頭がおかしくなるのではなく、元々頭がオカシイ状態で、それが取れかける、その時にクラクラして認識がぐらつきます。しかし、それまであたりまえだと慣れ親しんできた認識の方法、解釈の方法、自我という視点が外れかけます。 ドグラ・マグラ 考察や解説や「ネタバレ」の危険性 ネタバレ、wiki、考察、解説、書評のようなものを読んで「読んで理解した気分」になるのは避けた方がいいと思います。