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logic 論理

論理学と哲学

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諸行無常の定義

諸行無常の定義について。諸法無我,涅槃寂静とともに仏教の三法印のひとつである。
平家物語によって、諸行無常は広く知られている。
平家物語の冒頭
 祇園精舎の鐘の声
 諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色
 盛者必衰の理をあらわす

また、「いろは歌」の冒頭部分の「いろはにほへとちりぬるを」も諸行無常を示している。

諸行無常の意味

諸行無常の意味としては、「すべての現象は移ろいでいく」ということ。端的には永久不変なものはないということ。
諸行無常は、この世のすべては本質も含め常に流動変化し、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないというもの。因縁という直接的原因・間接的原因・条件によってつくりだされた現象は、一瞬で流れていくというもの。
「涅槃経」の、諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽の四句を「諸行無常偈」という。
諸行は因と縁によって生ずる全ての現象であり、無常は固定的ではないということ。
諸行無常 仏教には刹那という考え方があり、一瞬の間にもものごとが変化していき、この世の中にある全ての事象・現象は、移り変わり行くものであり、同じ状態のまま留まるものはない。これが諸行無常である。
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煩悩の定義

煩悩の定義は、人間の心身の苦しみを生みだす精神のはたらき。肉体や心の欲望,他者への怒り,仮の実在への執着など。心身にまといつき心をかきみだす、一切の妄念・欲望。煩悩とは一体何でしょうか?煩悩の解消というと、欲があってそれを解決するには、欲を無くすか、欲の対象を叶えるかというような面で語られます。仏教の目的はたったひとつ。「煩悩による苦」の消滅です。
煩悩は、根本煩悩と枝末煩悩との2種に分類されます。
煩悩は欲と怒りと迷いで構成されています。欲=対象が自分の安心感や満足感、幸福感の条件として不足している=渇望感
怒り=対象が自分の安心感や満足感、幸福感の条件として、不必要ながら余分に存在している=不快感
という感じです。
煩悩

仏教では人間の生存を苦であると説き、その根源は煩悩にあると説きます。

過去は変えられないが、未来は変えられる の論理の矛盾。

過去は変えられないが、未来は変えられる の論理の矛盾。「未来」が確定していないのに「変えられる」のはおかしい。論理が矛盾して破綻している。「過去は変えられないが、未来は変えられる」という言う場合、過去の経験から未来を予測し想像しているからこそ、「変えられる」といいたがっているのだと思う。

「過去は変えられないが、未来は変えられる」は根本的に論理が破綻している

SEOの数理と閾値

ウェブサイト活用にも当然に「閾値(いきち)」という考えが適用できます。
ウェブサイトは、マーケティングツールとしての効果が現れるまでに段階があります。そして、ある段階に達した時、その真価が発揮されます。
閾値(いきち)とは
閾値とは、要約すれば「反応が起こるために必要な最小量」です。
ウェブサイト活用に置き換えれば、ウェブマーケティングにおけるウェブサイトの効果が現れるための必要なサイトパワーです(少し無理やりかも知れませんが)。
サイトのマーケティング効果
閾値という言葉を使ったのは、サイト自体のマーケティング効果は、施策に対してまっすぐは比例しないからです。
通常、ウェブ広告などは費やした費用に正比例して、効果が現れます。
もちろん多少の変動や限界値、そして閾値もありますが、概ね正比例と捉えて良いと考えます。


批判への批判としての「ルサンチマン」の利用

優越感を刺激するものに対する批判への批判としてルサンチマンが使われたりします。つまり弱者の怨恨であり、「僻みだ」と居直るようなことです。そういった使われ方もあたっていることはあります。ただ、これは水掛け論であり、「見栄の塊だ」という批判への反論が「僻みだ」というのも、構造上決着がつきません。
「優越感を刺激するもの」を「非難すること」は「僻み」なのかという点と、その優越感を非難する基準はどうやって決まっているのかという点はあまり語られません。 批判への批判としての「ルサンチマン」の利用 ルサンチマンについては ルサンチマン

積極的ニヒリズム(能動的ニヒリズム)の一般的な解釈

自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度 積極的ニヒリズムなどと言われますが、本来はポジティブもネガティブもありません。そんなものがあったら「虚無」ではありませんね。 積極/消極、受動/能動という概念すら「虚無」のはずです。虚無はどこに行ったのでしょうか。

積極的ニヒリズム(能動的ニヒリズム)の一般的な解釈の例

積極的ニヒリズム(能動的ニヒリズム)の一般的な解釈である「すべてが無価値だというのなら、自ら積極的に仮象を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度がいい」ということを、普通に解釈すると変な方向に向かいます。積極的ニヒリズム(能動的ニヒリズム)の一般的な解釈の例

積極的ニヒリズム(能動的ニヒリズム)の「より具体的」な解釈


積極的ニヒリズム(能動的ニヒリズム)の一般的な解釈は、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度、とういうことになっていますが、それをどの視点から解釈するかによって、内容が著しく変わってきます。積極的ニヒリズム(能動的ニヒリズム)の「より具体的」な解釈

ルサンチマンに利用される対象

ルサンチマンを持つ人は想像上の復讐によって自尊心の埋め合わせをつけるような人であり、アイドルを仕立てあげて、殉教することに自惚れる、これも弱者の怨恨であるルサンチマンの表れです。誰かすごそうな人や団体と同化し、その人の意志のようなものに適うことが正しいとする解釈変更です。奴隷精神の最たるものですが、ルサンチマンに利用される対象は、ヒーローやアイドル、美化された愛社精神も含まれます。
社会的な弱者はルサンチマンとして社会的な価値観を否定したり、反転した解釈を行い、自分の陥っている状態を正当化しようとします。その奴隷精神、解釈変更がルサンチマンです。

ルサンチマン(ressentiment)

弱者による強者に対する怨恨=ルサンチマン。一般的には経済的、社会的弱者をさします。ルサンチマンを「怨恨」という風に捉えるのは、短絡的すぎます。ただの恨みや僻み、という面より、恨みの感情をどう処理するか、という思考面での方法論です。ルサンチマンは、復讐というより、解釈変更です。価値基準をオリジナルにしてしまう、というものです。
一般的な定義である「弱者による強者に対する怨恨」というよりは奴隷精神による、価値の解釈変更であり、自尊心の充足の方法論です。感情よりも思考的な解消法であり、想像上の復讐という風に説明されたりもしますが、復讐というより、自己完結です。

ドグラマグラ2 考察や解説や「ネタバレ」

ドグラマグラ
要約やあらすじを書くことは不可能という人がいますが、字数が決まっている作品なのにできないわけがありません。解説、考察はやろうと思えばできますが、「本文を読んだ気」になることを避けるために、そういうことをする気はありません。どんな本でも、まずは原典、分かりにくければ注釈書、というのが、取るべきプロセスです。しかも日本人が日本語で書いているのですから。 ともすれば、自我が「これは自分を脅かさないぞ」と反応してくれるものだけを認める傾向にあります。自我が働いているのだから当然です。こういう話を宗教屋や自己啓発洗脳の人は、断定したりしますが、そんなことをするつもりはありません。
気が狂うのではなく、読んで意味がわからなければ、気が狂っています。これを読んで頭がおかしくなるのではなく、元々頭がオカシイ状態で、それが取れかける、その時にクラクラして認識がぐらつきます。しかし、それまであたりまえだと慣れ親しんできた認識の方法、解釈の方法、自我という視点が外れかけます。 ドグラ・マグラ 考察や解説や「ネタバレ」の危険性 ネタバレ、wiki、考察、解説、書評のようなものを読んで「読んで理解した気分」になるのは避けた方がいいと思います。