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logic 論理

論理学と哲学

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懐疑論 パスカルの賭け

パスカルの賭けというものは、確率論的というのは少しおもしろみがあるものの、出だしが妄想というより社会的洗脳からはじまっていますから、あれほどの才能があるにもかかわらず、残念な結果になっています。類例としてあげられる親鸞は、もっとお粗末です。
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演繹論理

演繹(証明)は、命題論理のような形式体系の文脈では正確に定義できる。命題 α は、前提の集合 Σ に推論規則を繰り返し適用することで演繹される。演繹は、この推論規則の繰り返し適用の記録。

伝統的な論理学

古代より世界各地において論理学の研究に関する文献が残されてる。
アリストテレスが推論の規則として三段論法を定式化したことが知られている。アリストテレスは伝統的論理学の体系的な研究に取り組んだ哲学者であり、彼はギリシャ語で言語、論理を意味するロゴス からことばの学としてのロギカを構想した。アリストテレスはオルガノンにおいて論証に使われる文章を命題として捉え、各命題がどのように組み合わさることで正しい推論が可能になるかを考察。
中国の墨子が墨弁において推論や証明の形式的な方法を考察、インドのディグナーガなどが論証の基本的な条件について整理、ギリシアにおいてはエウクレイデスが公理に基づいた論証を用いた。


論拠としての気分

盗人にも三分の理ということで、どういうことか真剣に考えたことがあります。すると訳を聞くと「楽しみに来ているのに、そういう細かいことを言われると気分が台無しになる」というものでした。また、「仕事や遊びの局面で、最高のパフォーマンスを出したい」というものでした。論拠としての気分

効用からの推論

手前で何かを「信じよう」としたり、そのような情報を見聞きして、それが起こる以前にそのような思考の癖や心にインパクトがついたから、というのも一つの原因です。そういう原因なしにそのような声が出てくることはありません。

そういうことが起こった時にそれに意味付を行います。そこで出てくるのがそういう胡散臭い「本当の自分」とかです。確かにそれが起こったとしても、一瞬の現象にしか過ぎません。それ以上のことを「考え出す」のは妄想でしかありません。効用からの推論


決疑論

決疑論
あらゆる選択をするときに指針となるのは、道徳・倫理・宗教上の戒律などです。経済社会にとっては経済理論だったり、国家の中では法律の類だったりします。
昔から、その判断基準を決めるために様々な議論がなされてきましたが、ほとんどは宗教の影響を受けています。まず根底にあるのは「人間とはどういった存在で、どういった価値を定めるべきか」です。決疑論

原因や結果や現実

 原因、結果、現実、これらを軽蔑して、何か別のものと関連させようとするのはトンチンカンです。関連して納得しようとするのはあいつの働きですから、即時的にそれで終わり、何も考えないくらいでちょうどいい、といったようなところでしょうか。原因や結果や現実の軽蔑

ドグラマグラ

難解、気が狂う、、日本三大奇書と言われながらも、すでに考えたことのあることなのだから特に新鮮味もありません。面白みはあるものの、ダレてしまいました。しかし最後までオチは明かさないまま、というところがいいですね。何も確定しないまま終わります。オチがあるかのように思ってしまうのは、まだまだ「騙されて」いますから、よくよく全体の論理構成を見なおしてよく考え直してください。オチを設定できない内容です。それは矛盾になります。しかしながら、それは小説の中の世界だけではありません。ドグラ・マグラ
著作権保護期間が切れているため、青空文庫にあります。

時間と主観 客観の誤謬

主観と客観というふうに、ひとまず私から見た場合、外から見た場合、というように分けて考えるような手法は、「人に説明する場合」に限って意味をなしうるだけで、本来的に主観しかない。ということは主観も客観もない。しかしながら、いわば客観というのは「説明のための仮止め」にしか過ぎないはずだが、いつしか客観を軸に物事が語られるようになった。 確実に「存在するもの」として、時間は絶対にある、というような事を聞くが、そんなことは「対外的」に証明することもできなければ、何かしらの観測結果がその証拠となり得ることもない。時間と主観