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論理学と哲学
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パスカルの賭けというものは、確率論的というのは少しおもしろみがあるものの、出だしが妄想というより社会的洗脳からはじまっていますから、あれほどの才能があるにもかかわらず、残念な結果になっています。類例としてあげられる親鸞は、もっとお粗末です。
盗人にも三分の理ということで、どういうことか真剣に考えたことがあります。すると訳を聞くと「楽しみに来ているのに、そういう細かいことを言われると気分が台無しになる」というものでした。また、「仕事や遊びの局面で、最高のパフォーマンスを出したい」というものでした。論拠としての気分
手前で何かを「信じよう」としたり、そのような情報を見聞きして、それが起こる以前にそのような思考の癖や心にインパクトがついたから、というのも一つの原因です。そういう原因なしにそのような声が出てくることはありません。
そういうことが起こった時にそれに意味付を行います。そこで出てくるのがそういう胡散臭い「本当の自分」とかです。確かにそれが起こったとしても、一瞬の現象にしか過ぎません。それ以上のことを「考え出す」のは妄想でしかありません。効用からの推論
あらゆる選択をするときに指針となるのは、道徳・倫理・宗教上の戒律などです。経済社会にとっては経済理論だったり、国家の中では法律の類だったりします。
昔から、その判断基準を決めるために様々な議論がなされてきましたが、ほとんどは宗教の影響を受けています。まず根底にあるのは「人間とはどういった存在で、どういった価値を定めるべきか」です。決疑論
原因、結果、現実、これらを軽蔑して、何か別のものと関連させようとするのはトンチンカンです。関連して納得しようとするのはあいつの働きですから、即時的にそれで終わり、何も考えないくらいでちょうどいい、といったようなところでしょうか。原因や結果や現実の軽蔑
主観と客観というふうに、ひとまず私から見た場合、外から見た場合、というように分けて考えるような手法は、「人に説明する場合」に限って意味をなしうるだけで、本来的に主観しかない。ということは主観も客観もない。しかしながら、いわば客観というのは「説明のための仮止め」にしか過ぎないはずだが、いつしか客観を軸に物事が語られるようになった。 確実に「存在するもの」として、時間は絶対にある、というような事を聞くが、そんなことは「対外的」に証明することもできなければ、何かしらの観測結果がその証拠となり得ることもない。時間と主観