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logic 論理

論理学と哲学

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決定論的な理の中の確率による因果と日和見

決定論的な理の中の確率による因果と日和見。
因果を考える上で、前の状態が次の状態を決定づけるという決定論があるが、そうした因果律の中にも確率的な不確実性・不確定性が潜む。
そうした中での決定において、よりマクロな領域となると、日和見の動きというものが絡んでくる。

確率に潜む日和見
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利他性からくる消去法

消去法が利用されるような時、何かしらの制限や惰性があり、視野が狭まっているということが裏側で起こっていたりする。その一方で社会に適応し、いたるところで協調と利他性を考えた結果、消去法に慣れてしまったというところから起こる利他性からくる消去法もある。

一種の消去法


演繹と要約の訓練

論理の中には演繹法があるが、演繹の最大の欠点は、途中で止まるとそれ以降の論理を進められないことにある。
要約の訓練をすることで、重要箇所の抽出ができるようになる。
定義を曖昧にしたまま学習を進めても、論理が展開していかず混乱が進むだけであるため、ようやくの訓練で重要箇所を把握しながら、その部分の定義を明確にしていくと学習はスムースになる。

学習と演繹

なぜ人を殺してはいけないのか

なぜ人を殺してはいけないのか?人を殺してはいけない理由について。なぜ人を殺してはいけないのか」と聞かれたらどう答えるだろう? 日本の刑法には殺人罪があり、もちろん人を殺すと法的には罰せられる。しかしそれは社会的な制裁であり、社会契約説的に公権力が死刑という制度を持って殺人を行っていることの矛盾には回答していない。
問題は、絶対的な理由であり、「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という人を殺してはいけないことに関する絶対的で明確な理由にである。しかし絶対的な理由はなく、それを求めても、どこにも答えはない。しかし、「私が人殺しをしてはいけない理由」は考察することができる。
人を殺してはいけない理由

SEOの数理と閾値

ウェブサイト活用にも当然に「閾値(いきち)」という考えが適用できます。
ウェブサイトは、マーケティングツールとしての効果が現れるまでに段階があります。そして、ある段階に達した時、その真価が発揮されます。
閾値(いきち)とは
閾値とは、要約すれば「反応が起こるために必要な最小量」です。
ウェブサイト活用に置き換えれば、ウェブマーケティングにおけるウェブサイトの効果が現れるための必要なサイトパワーです(少し無理やりかも知れませんが)。
サイトのマーケティング効果
閾値という言葉を使ったのは、サイト自体のマーケティング効果は、施策に対してまっすぐは比例しないからです。
通常、ウェブ広告などは費やした費用に正比例して、効果が現れます。
もちろん多少の変動や限界値、そして閾値もありますが、概ね正比例と捉えて良いと考えます。

懐疑論 パスカルの賭け

パスカルの賭けというものは、確率論的というのは少しおもしろみがあるものの、出だしが妄想というより社会的洗脳からはじまっていますから、あれほどの才能があるにもかかわらず、残念な結果になっています。類例としてあげられる親鸞は、もっとお粗末です。

演繹論理

演繹(証明)は、命題論理のような形式体系の文脈では正確に定義できる。命題 α は、前提の集合 Σ に推論規則を繰り返し適用することで演繹される。演繹は、この推論規則の繰り返し適用の記録。

伝統的な論理学

古代より世界各地において論理学の研究に関する文献が残されてる。
アリストテレスが推論の規則として三段論法を定式化したことが知られている。アリストテレスは伝統的論理学の体系的な研究に取り組んだ哲学者であり、彼はギリシャ語で言語、論理を意味するロゴス からことばの学としてのロギカを構想した。アリストテレスはオルガノンにおいて論証に使われる文章を命題として捉え、各命題がどのように組み合わさることで正しい推論が可能になるかを考察。
中国の墨子が墨弁において推論や証明の形式的な方法を考察、インドのディグナーガなどが論証の基本的な条件について整理、ギリシアにおいてはエウクレイデスが公理に基づいた論証を用いた。

論拠としての気分

盗人にも三分の理ということで、どういうことか真剣に考えたことがあります。すると訳を聞くと「楽しみに来ているのに、そういう細かいことを言われると気分が台無しになる」というものでした。また、「仕事や遊びの局面で、最高のパフォーマンスを出したい」というものでした。論拠としての気分

        
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