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logic 論理

論理学と哲学

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決定論的な理の中の確率による因果と日和見

決定論的な理の中の確率による因果と日和見。
因果を考える上で、前の状態が次の状態を決定づけるという決定論があるが、そうした因果律の中にも確率的な不確実性・不確定性が潜む。
そうした中での決定において、よりマクロな領域となると、日和見の動きというものが絡んでくる。

確率に潜む日和見
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利他性からくる消去法

消去法が利用されるような時、何かしらの制限や惰性があり、視野が狭まっているということが裏側で起こっていたりする。その一方で社会に適応し、いたるところで協調と利他性を考えた結果、消去法に慣れてしまったというところから起こる利他性からくる消去法もある。

一種の消去法


ルサンチマンに酔う人

本来ルサンチマンは思考上の解釈変更であって、怨恨感情そのものではない。怨恨感情は思考の結末として起こる反応であり、そうして起こった感情を解消する思考がルサンチマンだ。
そうしたルサンチマンの概念をまるで厭世主義的に自分に酔いつつドツボにはまる人がたまにいる。

ルサンチマン(ressentiment)



諸行無常と時間

諸行無常の意味としては、「すべての現象は移ろいでいく」ということ。端的には永久不変なものはないということであるが、では時間を捉えるときにはどうなのか?
それは自分が変化しているからこそ時間という概念が生まれるということだ。

諸行無常の定義

自由意志論と社会の帰責

自由意志論は、社会の帰属、帰責の問題とつながってくる。決定論と自由意志の関係を見ると、社会における責任関係がややこしくなるからだ。
自由意志があるのか、自由意志がないのか、それによって社会における責任問題が生じてくる。
決定論は、すべての出来事はそれに先行する出来事によって完全に決定されているという主張。そしてカントはその決定論を支持した。
決定論から自由意志を検討すると、人間に自由意志はないということになる。そうなると、自由意志で行為したというわけではないので、すべての人間の行為に責任がなくなってくる。そうなると契約も犯罪を裁くこともできなくなる。その答えは社会における非決定論、帰責への検討だ。

自由意志を哲学と社会学的帰責から紐解く

演繹と要約の訓練

論理の中には演繹法があるが、演繹の最大の欠点は、途中で止まるとそれ以降の論理を進められないことにある。
要約の訓練をすることで、重要箇所の抽出ができるようになる。
定義を曖昧にしたまま学習を進めても、論理が展開していかず混乱が進むだけであるため、ようやくの訓練で重要箇所を把握しながら、その部分の定義を明確にしていくと学習はスムースになる。

学習と演繹

なぜ人を殺してはいけないのか

なぜ人を殺してはいけないのか?人を殺してはいけない理由について。なぜ人を殺してはいけないのか」と聞かれたらどう答えるだろう? 日本の刑法には殺人罪があり、もちろん人を殺すと法的には罰せられる。しかしそれは社会的な制裁であり、社会契約説的に公権力が死刑という制度を持って殺人を行っていることの矛盾には回答していない。
問題は、絶対的な理由であり、「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という人を殺してはいけないことに関する絶対的で明確な理由にである。しかし絶対的な理由はなく、それを求めても、どこにも答えはない。しかし、「私が人殺しをしてはいけない理由」は考察することができる。
人を殺してはいけない理由